みなさん、こんにちは!
自粛期間中に体を作り直し、筋肉量は落とさず10kg減量したNo.6加藤です!
加藤式ダイエットを知りたい方は、ご連絡ください!私のメソッドを伝授します!笑

さて、【自分の生い立ち】シリーズも何名かの選手が書いてきましたが……、やっと私の順番が来ました!早く順番よ、来い、来い!と、ずっと思っていました笑

わずか30年余りの人生ですが、「加藤嵩士」がいかにして形成されたかご紹介させていただきます。

では、数あるテーマの中から、今回は3つのテーマに絞ってお話します。

テーマ1:実写版ライオンキング!
テーマ2:スーパー建築士!少年・加藤!
テーマ3:挑戦!ヤオスッ!エホーイーハー!

それでは、「実写版ライオンキング!」からご紹介していきます。

加藤家の3人兄弟の末っ子として、私「嵩士」が誕生しました!
母にどんな赤ちゃんだったか聞くと、「よく泣いて、なかなか寝ない子だった……。」と言われました。今はどこでも一瞬で寝てしまうので、「本当かなぁ」と思いましたが、かなり両親を困らせていたそうです!笑

優しい両親と兄弟のもと、すくすくと成長するBABY嵩士でしたが、成長するにつれて、髪の毛にある特徴が出てきます……。

それは……、

ものすごい直毛です!

無重力!まさにタテガミ!そう、「ライオンキング」です!

今でも髪の毛を短くすると本領を発揮しますが、小さい時の直毛はその比ではありません。そして、この直毛DNAはしっかりと我が息子にも遺伝しておりました!笑
まさに「ライオンキング2」!

直毛DNA

その後のBABY嵩士は、タテガミを揺らしながら、まさに動物のように東海市の自然あふれる街中で元気に成長していきました!

そして、「スーパー建築士!少年・加藤!」へと話は進みます。

悩む少年・加藤

少年・加藤を語るうえで欠かせないものがあります。それは「レゴブロック」です!

幼少期から中学に上がる前くらいまで、本当に朝から晩までずっとレゴブロックで遊んでいました。レゴブロックで自分の描く世界や建物、乗り物を作ることが大好きで、毎日何を作ろうか悩みながら、黙々と作品を作りあげていました。

レゴブロックの世界の中では、少年・加藤はまさにスーパー建築士!
一軒家を1時間余りで建て、そして自家用車も2台作成していました!

今でも時間ができたら、レゴブロックをやりたいと思っているほどですし、息子がもう少し大きくなったらレゴランドにも行きたいです!(私が行きたいだけですが……笑)

レゴによって知能も育成された少年・加藤に、いよいよ人生の転機が訪れます!

それでは最後のエピソード「挑戦!ヤオスッ!エホーイーハー!」です。

すくすく成長し、小学校まではサッカーをしていた少年・加藤ですが、中学校でハンドボールに出会います。

まさかこの出会いから、30歳を超えるまでハンドボールを続けるなんて想像もしていませんでしたが、出会った時からハンドボールの魅力にとりつかれていました!

中学を卒業する頃には「強いところでハンドボールがやりたい!」と思うようになり、両親に愛知県No.1の愛知高校に入りたいと話し、強豪校でハンドボールに挑戦することに決めました!

中学生時代は県大会にも出場できないレベルだったので、入学した当初は練習についていけず、周りは名古屋中から集まった上手な選手ばかりいる状態が本当に辛かった思い出があります。

そんな中でも顧問の川瀬先生やチームメイトに支えていただき、なんとか3年間ハンドボールを続けられ、その後も大学、社会人まで続けることができました!

高校の3年間がなければ、今の自分は無いと思っています。川瀬先生には「社会に出て役に立つ」という理念のもと、ハンドボールだけでなく、生活面に至るまでご指導いただきました。

そんな充実した愛知高校でのハンドボール生活ですが、入学して驚いたことがあります。
それは「クセのある挨拶とかけ声です!」笑

愛知高校ハンドボール部では「おはようございます。こんにちは。こんばんは。」のすべての挨拶をまとめて「ヤオスッ!」と言います。

語源等は誰も知りませんし、聞いたこともありません。

とにかく「ヤオスッ!」と教えられるので、街中で先輩に会っても「ヤオスッ!」と言います!それもかなりの声量です!

そしてもう一つが、練習中の掛け声です。
普通は「頑張りましょう!」とかですが、クセの強い愛知高校ハンドボール部は違います!
「エホーイーハー!」です!イントネーションは各々ですが、ベースは一緒です。
こちらも語源等は誰も知りません。

「エホーイーハー!」の「ハー!」のところ

入学前に行われる事前合宿で、先輩たちによる「ヤオスッ!」と「エホーイーハー!」の発表会が毎年開かれ、そこで各々の「ヤオスッ!」と「エホーイーハー!」を先輩たちが見本でみせ、アドバイスをいただきます。
先輩たちの生エホーイーハー!を聞いた時は「こ、これがエホーイーハー!か……。すごい。」と、その迫力に衝撃を受けた記憶があります。本当にいろんな刺激を受けた高校時代でした。

そして、さらにハンドボールにのめり込んだ私は、大学では公務員を目指しながらハンドボールを続けたいと思い愛知大学に進みました。

4年生の時には消防士になることが決まっていましたが、同時期に大同特殊鋼から声をかけていただき、最後までどちらの人生を選択するか悩みました。

本当に最後まで悩みましたが、自分の好きなことは何だろうと考え、「やれるところまでハンドボールをやろう!やりたい!」と思い、大同特殊鋼に入ることを決めました!

短く書くつもりだったのですが……笑
これがBABY嵩士から大同特殊鋼に入社にするまでの加藤の生い立ちとなります!

最後に、これからのシーズンについてですが、今年は新型コロナウイルスの影響により、日本リーグの開催も心配されていましたが、予定通りの開催が決定しました。さまざまな大会が中止になる中、私たち実業団の試合が開催される意義や責任もしっかりと考えて臨んでいきたいと思っています。

そして今年こそ、日本一を目指しチーム全員で気持ち前面に出して戦う姿をお見せし、フェニックスを応援してくださるみなさまと一緒に喜びを分かち合いたいと思います!

これからも応援よろしくお願いいたします!

みなさん、こんにちは!
先月、ついに三十代の仲間入りを果たしましたNo.11の平子です。
【自分の生い立ち】シリーズもついに私の番となりました。
では、早速自己紹介していきたいと思います。

私は1990年6月14日に三重県で生まれ、鈴鹿市の田舎町でのびのびと育ちました。
小さい頃からボールで遊ぶのが好きだったようで、どこに行くにもお気に入りのボールを持っていっていたようです。

こんな可愛い時代もありました!

そんな私が友人の誘いなどもあり、ハンドボールを始めたのは小学3年生からです。
小学生時代は、当時日本リーグに参戦していた本田技研が地元のチームとして活躍していて、そこに在籍していたステファン・ストックランという選手が大好きで、将来あんなすごい選手になりたいなという想いが芽生え始めました。

そんな想いがあり、本来通う予定の中学にハンドボール部がなかったため、ハンドボール部がある中学校に進学しました。
東海地方のハンドボール事情として、「打倒・愛知県!」というのが、愛知県以外の東海圏の中学校の目標で、「なんとか愛知の中学校に勝ちたい!」という思いでハンドボールをしていました。
結果は負けっぱなしで、全国大会に出場したのも3年生の時に参加したJOC(ジュニアオリンピックカップ)のみで、総じて少し悔いが残る結果の3年間でした。

中学校時代は点取り屋でした!笑

中学生時代から試合結果にこだわるようになり、「日本一になってみたい!」という気持ちを抱くようになり、ハンドボール人生に悔いを残したくないと思い、高校は全国から有望な選手が集まる福井県の北陸高校に進学を決めました。それと同時に住み慣れた鈴鹿を離れ、寮生活が始まりました。
寮生活で感じたのは「親のありがたみ」です。「将来、絶対に親孝行しよう」と、この時に心の中で誓ったのを覚えています。
肝心なハンドボールの方は、中心選手として日本一を3回も経験し、全国大会で最優秀選手に選ばれるなど……、ひとことでいうと順風満帆でした!笑

レアな坊主頭です!笑

その後は日本体育大学に進学をしました。
大学時代は、両膝の前十字靭帯を断裂するなど怪我に悩まされ、この先の人生でハンドボールとどう向き合っていくか、自分自身の身体とどう付き合っていくかということを深く考えさせられました。
そんな時に頭によぎるのは、やはりこれまで支えてもらった両親を含め、お世話になった方々の顔であり、「ここでやめたらこれまで積み上げてきたものが台無しになってしまう」、
「これまで私を育ててくれたといっても過言ではないハンドボールで、何かしらの恩返しや頑張っている姿を見せたい」と思うようになりました。
そんな思いから、せっかくやるなら、より高いレベルでやりたいと思い、大同特殊鋼に入社し、現在に至ります。

約20年間、ハンドボールをやってきて、自分の力だけではここまで続けるのは難しく、様々な方の支えがあったり、色々なことを犠牲にしたりしてきているので、この先のハンドボール人生においても悔いが残らないように頑張っていきたいと思います!

みなさん、これからも引き続き応援よろしくお願いします!

みなさん、こんにちは。No.7久保龍太郎です。
世間では様々な取り組みが増え、息苦しい日々が続いていますが新しい生活様式、”withコロナ”には慣れたでしょうか?
気温も高くなり、マスクを付けて過ごすことも苦しくなってきましたが、熱中症に十分注意して頑張っていきましょう!!

今回は【自分の生い立ち】シリーズ、久保龍太郎編です!

私は久保家の長男として1990年5月15日に3,312gで産まれました。
小さい頃から何事にも好奇心旺盛、体を動かすことが大好きで、よく祖父母と山登りをしていたようです。

祖父と山登り

ハンドボールとの出会いは小学3年生の時でした。
小学校主催のドッジボール大会で、香川町ハンドボールスポーツ少年団オリーブくんの平木監督(当時)に声を掛けていただき、私のハンドボール生活がスタートしました。週1回の練習でしたが、みんなでワイワイ楽しむスタイルが自分に合っていました。

次に中学は、たまたま学区内に県内強豪校の香川第一中学校があり、進学しました。
この頃は仲間と一緒にハンドボールをすることが楽しくて、あまり勝ち負けに執着がありませんでした。
しかし、2年生の時に大阪で開催されたJOC(ジュニアオリンピックカップ)で衝撃を受けた事をきっかけに私のハンドボール観がガラリと変わりました。
それは、ジークスター東京に所属する信太さん率いる茨城選抜と対戦したことです。
試合結果は40対20くらいでコテンパンに負けてしまいましたが、試合に負けて悔しかったことよりも試合中、信太さんと対峙した時に「ダメだ、この人には心・技・体、全てにおいて勝てない」と素直に感じたことにすごく悔しい気持ちを覚えました。
それからは試合に負けたくない、相手選手にも負けたくないと思うようになり、この頃から強くなりたい、勝ちたいと思い、ハンドボールに取り組むようになりました。

そのような思いから、高校は全国大会の常連校、香川中央高校に進学しました。
練習量、練習時間ともに想像をはるかに超えており、入部当初はついていくので精一杯。夏休みもほぼ毎日、炎天下の河川敷で朝から晩までドロドロになりながら練習に励む、ハンドボール漬けの高校生活でした。部員全員が3年間、 “坊主”だったことも今では良い思い出です。笑
高校では河合監督のもと、仲間を大切にする心や泥臭くクレバーなハンドボールを学びました。

高校時代(2番)

大学は、ハンドボールの第一線でプレーすることと、将来、河合監督のような熱い体育教師になるという2つの目標を叶えられるのはココしかないと思い、早稲田大学への進学を決めました。伝統ある大学に入学できたおかげで多くの方々と知り合い、早慶戦など大学のビックイベントにも多く参加でき、素晴らしい大学生活を過ごすことができました。
また、学業と部活動を両立させる大切さを学べたことで、人間的に大きくなれたと感じています。
余談ですが、実技授業では瀬戸大也選手に水泳を、大迫傑選手に陸上を教えてもらったこともありました。良い思い出です。(完全にミーハーですね!笑)

大学時代(2番)

そして、社会人は仕事とハンドボールの”二足のわらじ”で、アマチュア精神を大切にする社風に惚れて、大同特殊鋼に入社を決めました。
色々な壁にはぶつかりますが、自分で目標を立て、「やればできる精神」で前向きに取組んでいます。現在では、家族という守るべきものも増えたので、今以上にfightできそうです。これからも頑張るぞー!

ここまで生い立ちを書きましたが……、これほど幸せで楽しいハンドボール生活が過ごせているのも色々な方との出会いがあったからです。

全世界に70億人の人がいるといわれていますが、その中で何らかの接点を持つのが30,000人、学校や仕事などを通じて近い関係を持つのが3,000人、親しい会話ができる関係が300人といわれています。この数字を見て分かると思いますが、出会いは奇跡です。
これからも一つひとつの出会いを大切にして、前向きに生活していきましょう。

ありがとうございました。

順位表
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