みなさん、こんにちは。No.5の石橋です。
新型コロナウイルスによる緊急事態宣言は解除されましたが、まだまだ油断は禁物です。できる限りの予防に努めていきましょう!

さて、東江選手、池辺選手と続いている【自分の生い立ち】シリーズですが、3番手として私が書かせていただきます。
え、興味ないって……? そんなことは言わずに、ぜひ最後まで読んでみてください笑

私は石橋家の第2子で長男として1991年6月27日に誕生しました。
姉の影響もあり3歳のころからピアノを習わせてもらっていました。他にも水泳や体操など多くの習い事をさせてもらっていました。ピアノについて今はもう指が全然動かず、もっとまじめに練習をしていれば良かったと後悔しています……。

幼少期

小学校に入り、3年生の時に転校を経験しました。それを機に地域の少年野球のチームに入団し、そこからは野球三昧の日々でした。当時、強豪チームでキャプテンを務めていたので、中学校に入っても野球を続けると自他ともに思っていましたが、そんな矢先にハンドボールと出会いました。中学校に入学した当初、友人に誘われて軽い気持ちで部活見学会にいくと、一瞬にしてハンドボールの面白さに魅了されてしまいました。野球を辞めるかどうかを熟考して入部を決意したのを覚えています。当時は練習が厳しく2・3年生が集団でハンドボール部を辞めてしまったこともあり、すぐに試合に出て経験を積むことができました。最初は未経験者しかいないので負けてばかりでしたが、3年生になる頃には県大会を優勝するまでになりました。そこで収めた成績が評価され、進路が決まり、法政大学第二高等学校へ入学することとなります。

中学時代

法政二高では阿部直人先生指導のもと、毎日泥だらけになって「ALIVE」(チーム伝統のスローガン)していました。チームワークの大切さや、ポジティブな思考の持ち方、人財教育など、今でも教訓として私の人生に活きている大切なことを多く教わりました。強豪校なだけあり厳しい日々でしたが、大切な仲間とも出会うことができました。私が3年生の代では横浜創学館(同県の強豪校)にいつも負けていましたが、インターハイを決める最後の県大会では勝利を収めることができました。試合後にチーム全員で歌った校歌はとっても気持ちが良く、今でも最高の思い出として記憶に残っています。

高校時代の写真(左から3人目)

大学は大同特殊鋼にも多くのメンバーを輩出している日本体育大学へ進学しました。
ここで私は「受験」というものを初めて経験することになります。
高校で活躍してきた多くの選手は大学にはスポーツ推薦で入学します。フェニックスのメンバーもほとんどがそうだったと思います。しかし、私は推薦で入ることができず、高校の部活を引退した直後から猛勉強の日々が始まりました。この期間が人生で一番勉強をしていた期間なのではないかと思います。日体大は入試に実技の試験もあり、走るトレーニングなどにも取り組みました。
色々な方の支えもあり、晴れて日体大へ入学することができました。
日体大には、先輩にも同期にも有名で実力のある選手が多く、その人たちと一緒にプレーすることで勉強になることがたくさんありました。試合には2年生の時から出場できるようになり2年・3年とインカレ優勝を経験しました。
4年生の時にはインカレ3位という結果に終わってしまい、とても悔しい思いをしましたが、その悔しさもありハンドボールをもっと続けたいと思いました。
そんな時に、日体大の松井幸嗣先生から大同特殊鋼のことを聞き、縁あって同期の藤江選手とともに大同特殊鋼に入社することになりました。

以上が私の生い立ちから大同特殊鋼に入社を決めるまでになります。
長々と書いてしまいましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。

コロナウイルスがいち早く落ち着き、みなさんに会場で元気なフェニックスをお見せできるよう、日々一生懸命頑張っていきます!今後も応援よろしくお願いします!

みなさん、こんにちは! No.13 池辺です。
新型コロナウイルスの感染拡大によって、苦しい状況が続いていますが、引き続き感染予防や警戒を怠らず、1日でも早い終息を迎えられるように、協力し合っていきましょう!

さて、先週の東江選手から始まった、【自分の生い立ち】リレーですが、私が2番手を担当させていただきます!今までどんなハンドボール人生を送ってきたのかを書いていきます。

では、スタート!

私は1991年8月30日に生まれ、幼稚園児の頃に茨城県守谷市に引っ越してきました。
そして、入学した高野小学校でハンドボールと出会います。
私が小学1年生の時に高野小学校を拠点に活動しているスポーツ少年団守谷クラブというハンドボールチームが全国大会で優勝しました。その際に、母から「やってみれば?」と言われ、訳も分からず入団したような記憶があります。(ハッキリとしたキッカケはよく覚えていません笑)
ちなみに、地引監督も守谷クラブでハンドボールをしていたOBです!
全国トップクラスの環境でハンドボールをしていたので、学年が1つ上がる度に本格度が増していき、もっと上手くなりたいと、ハンドボールの楽しさを実感しました。

小学生時代(左から2番目が私です!)

小学校卒業後に入学した、けやき台中学校でも変わらぬ高レベルな環境で練習に打ち込むことができました!
2年生の頃には全国大会とJOCジュニアオリンピック大会で優勝して、自分たちも続こう!と結束したのを覚えています。
私たちが最上級生になった時に、春の全国中学生選手権大会の記念すべき第1回大会が開催されたのも印象深いです。結果は春、夏、JOC全て3位でしたが、ハンドボールへの情熱はさらに増していき、名門・藤代紫水高校への入学を決意します!

中学時代

藤代紫水高校の練習は非常にレベルが高く、最初は練習についていくのがやっとでした。(いや、付いていけていなかったかも笑)しかし、練習した分、自分の力になることが実感できましたし、仲間と共にやり切ることで達成感を分かち合えることを学びました。また、礼儀や人として自立するための人間力を学び、ここで過ごした3年間は自分にとっての財産となっています!「人との出会いを大切に、感謝の気持ちを忘れずに」、「苦しい時こそ頑張れ!」、これは恩師から教えていただいた言葉ですが、今でも私のモットーです。

高校時代(後列左端)

そして、文武両道を目指すために明治大学に入学しますが、授業の難しさに驚きながら単位取得のために必死で勉強しました笑
ハンドボールでも、インカレ3位を経験したり個人的にも良い成績を収めたりしていましたが、もっとハンドボールを極めたいと思い、日本リーグへの挑戦を決めました。そして、当時の末松監督からのスカウトもあり、人間として1番成長できると思った大同特殊鋼に入社を決めました!

以上が私の今までの経緯となりますが、生い立ちをまとめるのって、なかなか難しいですね笑
各カテゴリーで色々な思い出があって、まだまだ書き切れないこともありますが、これまでの経験を改めて振り返ることができたので、私としても貴重な時間となりました。
今は新型コロナの影響で以前のように思い切りハンドボールに打ち込めてはいませんが、またみなさんにフェニックスの熱いゲームをおみせできる日を楽しみにしながら、できることを精一杯やっていきます!今後も応援をよろしくお願いします!

みなさん、こんにちは!大同特殊鋼フェニックスNo.20東江です!
新型コロナウイルス感染拡大を防ぐための自粛期間が続き、ストレスの溜まる日々を過ごしていると思います。1日でも早く元通りの暮らしができるよう、みんなでこの状況を乗り越えていきましょう!

さて、今回の週刊フェニックスから各選手が【自分の生い立ち】をテーマに書かせていただきます。
その第1弾を飾らせていただくのが私、東江雄斗でございます。よろしくお願いします。

私は1993年7月6日に東江家の次男として生まれました。
両親がハンドボール選手だったこともあり、生後3ケ月で飛行機に乗り両親の遠征に連れていかれたそうです。(本当かどうかはわかりません笑)
幼い頃は、祖父母の家でご飯を食べて兄と楽しく過ごしたり、両親が練習する体育館に連れて行ってもらい、チームメイトの方に遊んでもらったりしていました。疲れたらコートの横でボールの弾む音やフェイントを切る音を聞きながら気持ちよく寝ていた記憶があります。(笑)

体育館にいる東江兄弟

小学校に入学すると、先に兄がハンドボール部に所属していたので私もすぐに入部したいとお願いしました。当時は4年生以上じゃないと入部できなかったみたいですが、「太輝の弟だから」という理由で特別に1年生から入部することができました!兄に大変感謝しております。(笑)
ここからハンドボール一筋かというと、実はそうではなかったんです。ハンドボール以外にもスイミングや書道、学習塾といった習い事に通っていました!
特にスイミングでは通い始めて3ケ月ほどで選手コースに昇格し、4泳法(クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ)でバリバリ泳いでいましたが、ハンドボールの練習に出られなくなるのが嫌で、それらの習い事は2年生に上がってすぐに辞めてしまいました。(笑)

そこからはハンドボール一筋で突っ走るのですが、足を捻れば骨折、シュートを打てば肋骨を骨折と、計8回も骨折しました……(笑)骨折ばかりの小中学生時代でしたが、小学生の時にはハンドボールの楽しさを、中学では両親にハンドボールの基礎や技術・戦術を学びました。
私が中学3年生の時のJOCジュニアオリンピック大会では両親はチームスタッフ、私はキャプテンとして出場し、親子で優勝の瞬間を味わいました。優勝した瞬間は監督と選手の立場ではなく、「お父さん、お母さん、やったね!!」と家族の立場で喜んだ記憶があります。

JOC優勝

高校は興南高校に進学し、1年生から試合に出させてもらい、夏のインターハイで優勝を経験しました。
高校時代の思い出は特に多いです。沖縄の夏に耐えきれず、熱中症に毎年なっていました(笑)
3年生の時のインターハイ1週間前にも熱中症で体調を崩して入院してしまい、なんとか退院はしましたが、実力を発揮できないままベスト8で敗退し、すごく悔しい思いをしました。
この悔しさを国体で晴らしてやると意気込み、山口国体で優勝し、インターハイの悔しさを晴らすことができたことは忘れられません。

そして、その後は進路のことですごく悩みました。
母や兄、高校の恩師である黒島先生の母校である日体大か、早稲田大のどちらに進学するのか、すごく悩んだ末に「大学リーグの日体大VS.早稲田大で勝利した大学に進学しよう!」と、よくわからない贅沢な決め方で、勝利した早稲田大学への進学を決めました(笑)

大学ではハンドボールはもちろん、社会というのも教わりました。
また、昔からですが私は本当に人に恵まれていたなと思います。
日頃より早稲田大学ハンドボール部を支援してくださるOBの方々や日本一、いや世界一ハンドボールに対して熱い大城章さん(現ソニーセミコンダクタマニュファクチャリング監督)。魅力ある先輩方はもちろん、ライバル校や一般入試で合格してきた同期、高校では甲子園に出場しバリバリ活躍していたけど、大学からハンドボールを始め、インカレでもしっかり活躍した付属校出身の同期など、個性豊かなメンバーに出会いました。
4年生のインカレ決勝では、入学をお断りした日体大に負けてしまいましたが、ハンドボールに対して思いが強いメンバーに恵まれ、ハンドボールと私生活の両面で充実した生活を送ることができました!

充実した大学時代

そして当時フェニックスの監督だったハンドボール界のスーパースター末松誠さんから熱烈なオファーをいただき、「ここなら自分をめちゃくちゃ成長させてくれる」と思い、伝統ある大同特殊鋼に入団しました。そこで私の憧れである元韓国代表で世界のベストセブンにも選出されたペク・ウォンチョルさんの背番号20番を受け継ぎ、王座奪還に向け、日々努力しています。

以上、長々とまとまりなく自分の生い立ちについて書きましたが、最後までお読みいただきありがとうございました。
早くみなさまと会場でお会いし、フェニックスのハンドボールでhappyにさせたい気持ちでいっぱいです!
また会場で元気にお会いできるよう、今を頑張りましょう!!

順位表
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