みなさん、こんにちは。No.7久保龍太郎です。
世間では様々な取り組みが増え、息苦しい日々が続いていますが新しい生活様式、”withコロナ”には慣れたでしょうか?
気温も高くなり、マスクを付けて過ごすことも苦しくなってきましたが、熱中症に十分注意して頑張っていきましょう!!

今回は【自分の生い立ち】シリーズ、久保龍太郎編です!

私は久保家の長男として1990年5月15日に3,312gで産まれました。
小さい頃から何事にも好奇心旺盛、体を動かすことが大好きで、よく祖父母と山登りをしていたようです。

祖父と山登り

ハンドボールとの出会いは小学3年生の時でした。
小学校主催のドッジボール大会で、香川町ハンドボールスポーツ少年団オリーブくんの平木監督(当時)に声を掛けていただき、私のハンドボール生活がスタートしました。週1回の練習でしたが、みんなでワイワイ楽しむスタイルが自分に合っていました。

次に中学は、たまたま学区内に県内強豪校の香川第一中学校があり、進学しました。
この頃は仲間と一緒にハンドボールをすることが楽しくて、あまり勝ち負けに執着がありませんでした。
しかし、2年生の時に大阪で開催されたJOC(ジュニアオリンピックカップ)で衝撃を受けた事をきっかけに私のハンドボール観がガラリと変わりました。
それは、ジークスター東京に所属する信太さん率いる茨城選抜と対戦したことです。
試合結果は40対20くらいでコテンパンに負けてしまいましたが、試合に負けて悔しかったことよりも試合中、信太さんと対峙した時に「ダメだ、この人には心・技・体、全てにおいて勝てない」と素直に感じたことにすごく悔しい気持ちを覚えました。
それからは試合に負けたくない、相手選手にも負けたくないと思うようになり、この頃から強くなりたい、勝ちたいと思い、ハンドボールに取り組むようになりました。

そのような思いから、高校は全国大会の常連校、香川中央高校に進学しました。
練習量、練習時間ともに想像をはるかに超えており、入部当初はついていくので精一杯。夏休みもほぼ毎日、炎天下の河川敷で朝から晩までドロドロになりながら練習に励む、ハンドボール漬けの高校生活でした。部員全員が3年間、 “坊主”だったことも今では良い思い出です。笑
高校では河合監督のもと、仲間を大切にする心や泥臭くクレバーなハンドボールを学びました。

高校時代(2番)

大学は、ハンドボールの第一線でプレーすることと、将来、河合監督のような熱い体育教師になるという2つの目標を叶えられるのはココしかないと思い、早稲田大学への進学を決めました。伝統ある大学に入学できたおかげで多くの方々と知り合い、早慶戦など大学のビックイベントにも多く参加でき、素晴らしい大学生活を過ごすことができました。
また、学業と部活動を両立させる大切さを学べたことで、人間的に大きくなれたと感じています。
余談ですが、実技授業では瀬戸大也選手に水泳を、大迫傑選手に陸上を教えてもらったこともありました。良い思い出です。(完全にミーハーですね!笑)

大学時代(2番)

そして、社会人は仕事とハンドボールの”二足のわらじ”で、アマチュア精神を大切にする社風に惚れて、大同特殊鋼に入社を決めました。
色々な壁にはぶつかりますが、自分で目標を立て、「やればできる精神」で前向きに取組んでいます。現在では、家族という守るべきものも増えたので、今以上にfightできそうです。これからも頑張るぞー!

ここまで生い立ちを書きましたが……、これほど幸せで楽しいハンドボール生活が過ごせているのも色々な方との出会いがあったからです。

全世界に70億人の人がいるといわれていますが、その中で何らかの接点を持つのが30,000人、学校や仕事などを通じて近い関係を持つのが3,000人、親しい会話ができる関係が300人といわれています。この数字を見て分かると思いますが、出会いは奇跡です。
これからも一つひとつの出会いを大切にして、前向きに生活していきましょう。

ありがとうございました。

みなさん、こんにちは。先週、誕生日を迎えたNo.4の藤江です!
まだまだプレゼント、お祝いメッセージ受け付けております!

新型コロナウィルスによる緊急事態宣言も解除され、少し落ち着いて来たのかなと思いますが、まだ不安定な状態が続いておりますので、今後も気を抜かずしっかりと予防を心掛けていきましょう。

さて、早速【自分の生い立ち】シリーズに入っていきたいと思いますが、過去の週刊フェニックスで小学校編について触れましたので、今回はそれ以外の時期について書いていきたいと思います。

エンジェル藤江(左)。(右は兄です!)

私は母の地元である秋田県で生まれ、その後は福井県で育ちました。
幼少期は基本的に身体を動かすことが大好きだったので、いつも兄の後ろを勝手についていき、兄やその友達と外でサッカーや追いかけっこなど、活発に遊んでいた記憶があります。今思えば、そんな感じで小学校までハンドボールもしながら元気に過ごしたことで、ハンドボールに必要な身体の土台が作れたのかなと思います。

中学校では、私が元々行く予定だった学校にはハンドボール部がなかったので、最初はサッカー部かバスケ部にでも入ろうと考えていましたが、隣町の学校にハンドボール部があるということを知り、光陽中学校に行くことを決めました。3年時には春、夏、JOCと全国大会に3度出場することができましたが、春は池辺選手が所属する茨城県のけやき台中学校にダブルスコアで負け、夏は初戦敗退、JOCも予選リーグ敗退と、何1つ満足のいく結果を残すことができませんでした。

しかし、そうやって全国で色んなチーム、選手と戦えたことや、その中で結果を残せなかった悔しさもあり、もっと上手くなって試合に勝ちたい!という思いが強くなり、必然的に地元にあるハンドボールの名門・北陸高校にいくことを決意しました。
しかし、北陸高校は県外からも多くの選手が来ることもあり、みんなレベルが高く、試合に出してもらっても足を引っ張ってばかりでした。なんとかチームに貢献したいという思いでひたむきにトレーニングに取り組み、高校3年生の時には春の選抜優勝、夏のインターハイ準優勝、秋の国体優勝と、2冠で終えることができました。

高校は3年間坊主でした

北陸高校で結果を残すことができた自分は、よりレベルの高いところにいきたいという思いがさらに強くなり、数多くの日本リーガーを輩出しているハンドボールの名門・日本体育大学に進学しました。日体大は先輩、同期、後輩と本当に上手な選手ばかりで、チームメイトと切磋琢磨しながら自分の技術を磨くことができるとても良い環境でした。2、3年生の時はレギュラーメンバーとしてインカレ連覇に貢献することができましたが、4年生の時は準決勝で敗れてしまい、3年連続優勝を逃してとても悔しい思いをしました。

大学時代(さりげなく石橋選手と2ショットです!)

この無念を晴らすべく実業団でもプレーしたいと思い、小学校時代からの憧れであった末松監督に誘っていただいて大同特殊鋼に入ることができました。末松監督には色々な技術を教えていただき、時には辛いこともありましたが、今の自分に全て活きていると感じています。

こうして振り返ると、まだまだ書き切れないことがたくさんありますが、とても懐かしい気持ちになりました。

今後も初心を思い出して、頑張っていきたいと思います。

現在、フェニックスは練習を再開し、ハードなトレーニングにも取り組んでいます。
もうすぐ7月に入るということで、少しずつ気温が高くなってきましたが、今シーズン1つでも多くのタイトルを獲ることができるよう、しっかり準備をしていきたいと思います。

みなさん、応援よろしくお願いします!

みなさん、こんにちは。No.2の杉山です。
徐々に普段の生活を取り戻しながら、「新しい生活様式」にも少しずつ順応してきているところではないでしょうか。しかし、まだまだ油断できない状態ではありますが「withコロナ」で共に生きていくという前提で自分を守りながら日々の生活を送っていきましょう!

ということで、今回は【自分の生い立ち】シリーズ第4弾「杉山編」を完全ノーカット版でお送りしたいと思います!!

 Here we gooooooo!!!

私は、杉山家の第3子で1991年7月3日にbirthしました。
小さい頃は毎日、祖父の畑に行き裸でカエルやザリガニを捕まえて遊んでいたそうです。
 

進撃の杉山

兄と姉の影響で、私も幼稚園の年長から習字を習い始めましたが、全く上達しませんでした。実はこの習字教室でNo.6加藤選手と出会っていたんです!
しかしこの時は、お互いのことは知らず、仲良くなったのは私が小3、加藤選手が小5の時で、母がやっていた「ママさんビーチボールバレー」がきっかけでした。あの時の加藤選手は……。
おっと、このままでは、加藤嵩士memoriesになってしまうので割愛します。

私が小2の時に、大同特殊鋼フェニックスOBの方が指導してくださる「東海ハンドボールスクール」というクラブチームが地元にでき、母が昔ハンドボールをやっていたこともあってハンドボールを始めました。
初日に緊張して、モジモジしながら目をパチクリさせていたことからコーチに「パチクリ」とニックネームを付けられ、それから28歳になった今もずっとチームメイトから「パチ」と呼ばれています!
濱野監督には、ハンドボールについては勿論のこと、礼儀や人として大切なことを教わりました。
一度だけ、嘘をついて練習を休み、中日ドラゴンズの試合を観に行ったことがありましたが、
しっかりバレました。(なぜバレたのかは今でも謎です……)
その時、「嘘はバレるんだなぁ」と小学生ながらに反省しました。(良い子は私みたいに、嘘ついて練習をさぼらないように!)
濱野監督は、とても厳しい方で、何度も辞めようと思いましたが、その勇気がありませんでした(笑)
しかし、そのおかげで今の私の土台ができたと思っています。

東海ハンドボールスクールの試合(黄色の2番)

中学でも部活とスクールの両方に所属していて、毎日ハンドボール漬けの日々でした。
部活では、県大会のベスト16で敗れてしまいましたが、JOCジュニアオリンピック大会では、愛知県代表として出場し、自分より上手い選手とハンドボールができて、とても楽しかった記憶があります。
愛知県代表の掛け声「イッーハー・イッーハー」が、なかなか上手く言えず、練習したのが懐かしい思い出です。
 
高校は、長崎県の瓊浦(けいほ)高校に進学しました。
学校が山の上にあり、登校するのに何百段という階段を登らないといけないので、とてもきつかったです。
末岡監督(大同特殊鋼フェニックスOB)のもと、選手一人ひとりの個性を生かした指導をしてもらいましたが、私たちの代は谷間世代で特長も弱く、ポンコツでした。
末岡監督には、たくさんご迷惑をかけただけでなく、たくさんの愛情を注いでもらいました。(瓊浦名物?ダッシュトレが懐かしいです)
 
大学は地元に戻って大同大学進学し、佐藤監督(大同特殊鋼フェニックスOB)の指導のもと、4年間練習に励み、社会人に必要なことや大切なことを多く学びました。
大同大学のハンドボール部には各学年に目標やモットーがあり、当時はなぜ必要なの?と思っていましたが、今ではとても大切なことを学べていたと実感しています。

大学生時代(前から2列目右から2番目)

そして現在は、小学生の頃からの夢だったフェニックスでプレーすることができ、切磋琢磨の日々を送っています。

以上が私の生い立ちになります!

6月1日から小グループごとの練習も始まり、徐々に強度を上げた練習をしています!
今後もみなさんに少しでも勇気と感動を与えられるように、努力していきますのでご声援のほどよろしくお願いします!
また会場でみなさんに会える日を楽しみにしています!

順位表
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