みなさん、こんにちは!No.18の吉田雄貴です。
生い立ちということで、私の26年間を紹介していきたいと思います。

1994年9月27日、吉田家の長男として福島県で生まれ、3歳下の弟と2人兄弟でいつも仲良く遊んでいました。「吉田=睡眠」と言われるほど今でもよく寝るのですが、赤ちゃんの頃からよく寝る子で、ミルクをお腹いっぱい飲めば、朝まで起きなかったそうです。また、歩き始めが早かったそうですが、よく転んで、いつも顔があざだらけだったそうです。笑

1歳児の吉田!
保育園の運動会にて

保育園の頃から負けず嫌いだったらしく、リレーで負けてしまうとすごく泣いていたそうです。負けないように父と走る練習をするなど、よく努力をする子でもありました。この努力の成果なのかはわかりませんが、小学5、6年生の時に所属していた陸上部では、5年生の時に市大会優勝、県大会7位と短距離で少し活躍しました!ちょっとした自慢です♪笑

その他にも、ドッジボールをやっていました!遊びのドッジボールではなく、テレビで見たことがあるかもしれませんが、一列に並んで陣形を組んで行う競技のドッジボールです。小学3年生から6年生までやっていましたが、おかげで今でもボールを投げるのが得意なのかもしれません。

一番右のプラカード持っているのが吉田です!

それから中学校に入り、友達に誘われて成り行きでハンドボール部へ入部し、私のハンドボール人生が始まります。なんとなく始めたハンドボールでしたが、やってみたらおもしろく、いつの間にかハマっていました。そして、高校は福島県の強豪「学法石川」に進学し、ただただ上手になりたい一心で練習に打ち込みました。ちなみに原田選手、康本選手とは高校時代から練習試合をしていましたが、まさか同じチームでやるとは思ってもいませんでした。特に、原田選手の大同高校とは飽きるほど練習試合をしていましたので、当時は「もうやりたくない」と原田選手と話していたのを覚えています。笑

大学は国士館大学に進学し、関東の高いレベルの中でハンドボールに取り組みました。そして、大学4年生時にインカレでようやく日本一になりました。本当に良い経験になったと思っています。(最初の週フェニで紹介していますね)

振り返ると、小学生からスポーツしかしていないです。勉強した覚えも記憶も何もございませんが……、現在は仕事とハンドボールを両立できるよう日々努力しています!これだけ好きなことをたくさんやらせてもって、わがままをすごく聞いてもらった親と、関わったすべての方に感謝でしかないです。これからもハンドボールを頑張っている姿で、恩返しをしていきたいと思います!

最後になりますが、日本リーグ開幕から無観客試合が続いていましたが、徐々に人数制限を設けた形で試合を開催しています。選手一同、感染予防対策を徹底して大会に臨みますので、是非会場までお越しください!みなさまの応援をパワーに、日本一をめざして戦いますので、応援よろしくお願いします!

みなさん、こんにちは!東海市で生まれ、東海市で育ち、東海市に愛された男、その名は……大同特殊鋼フェニックスNo.15原田です!

早速ですが、私の生い立ちについて紹介したいと思います。私は1994年4月16日に、原田家の長男として東海市に生まれました。小さい頃から体を動かすことが大好きで、毎日、親とボール遊びをしていました。親は、私にプロ野球選手になってほしくて、常にボールを触らせキャッチボールをしたり、バッティングセンターに連れて行ってもらったりしていた記憶があります。(夢を叶えられなくてすみません。笑)そのおかげもあってか、肩の強さはもちろん、体力測定には自信があり、小学校・中学校・高校と常に一番だった輝かしい時代が懐かしいです。(ただの運動おバカだったかもしれません。)

幼少期の原田

私は、小学校に入学する前に隣の町に引っ越しをしたため、当時、誰も友達のいない寂しい入学となったことが、私とハンドボールとの出会いのきっかけになりました。初めての友達からの「ハンドボールを一緒に体験しに行ってみない?」という誘いから、原田のハンドボールライフが始まりました。小学校にハンドボール部がなかったので、部活動では卓球部に1年とバスケ部に2年間所属していました。部活が終われば、毎週木曜日に東海市民体育館に向かい、東海ハンドボールスクールで熱心にハンドボールに取り組んでいました。

小学3年生から始めたハンドボールは、最初は本当に楽しくてワイワイやっていたのを覚えていますが、学年が上がるにつれてだんだんと結果を求めるようになりましたが……(わかる人にはわかると思いますが)、本当に楽しかったです!全国大会に出場したもののベスト8の壁を3年間超えることができず、悔しい思いをしました。この悔しい思いは中学で晴らそうと誓ったのを覚えています。

小学校時代のシュートシーン

中学に上がり、スクールの先輩方はいましたが、指導者がいなくてなかなか結果を残すことができませんでした。自分が上級生になった時にこれじゃダメだなと思い、東海ハンドボールスクールでやっていた練習を自分なりに応用を利かせて練習メニューを考え、取り組んでいたのを覚えています。その甲斐もあり、激戦区といわれる愛知県で2位まで上り詰めましたが、あと一歩が届きませんでした。

次こそは全国大会に出たい!と思い選んだステージが大同高校で、勝つために!と思い強豪校を選択しました。正直苦しいことの方が多くて辞めようと何回も思ったこともあります。良かったなと思うのは、高校時代に体の基盤をしっかり作ってもらったことです。中学から体つきが一気に変わり、一時はゴリラと呼ばれていたこともあるくらいガッシリしていました。そのおかげで、小さいながらも今の自分があるかなと思います。
加藤選手がいた愛知高校は、クセのある「エホーイーハー」という掛け声をアップ中に出していましたが、私がいた大同高校は、クセのある「ユーハーユーハッハッハ」という言葉をアップ中の掛け声として出していました。意味は、優勝(ユウショウ)のユーと制覇(セイハ)のハーを組み合わせているそうです。当時は、結構迫力がありカッコいいなと思っていました。アップ中の掛け声で相手チームに負けないよう、密かに競っていたのもいい思い出です。結果的には、大同高校初の春の選抜ベスト16という結果を出すことができましたが、インターハイには一度も出ることができず、またまた悔しい思いをしました。

次こそは結果を残したい!という気持ちで大同大学に進学しました。自分のスタイルにマッチして、とても充実したハンドボールができたと思います。個人的には、高校時代の憧れであったカテゴリー別日本代表にも選出され、ブラジルで開催されたジュニアの世界選手権(観客が4000人くらい?いました)やスペインで開催された世界学生選手権にも参加し、とても貴重な体験をさせていただきました。あの時の光景は、今も忘れない一生の宝物です!また、チームとしては環境・指導者・同期・後輩・保護者のみなさんのおかげもあり、大同大学初の全日本インカレ3位という結果を残すことができました。しかし、またまた日本一には届かず……。

世界学生選手権(14番) 他にフェニックスの選手もいますよ!

最後のハンドボール人生、日本一を取って終わりたいと思い、伝統ある大同特殊鋼に入社しました。みなさん、気づきましたか?私のハンドボール人生は、すべて大同ファミリーで形成されていることに……。こんな幸せなことはないと思うので、結果を残せるよう頑張っていきたいと思います。入社以来、まだ1度しか日本一を経験していないので、2度3度経験できるよう頑張ります!

社会人になってからケガが多く、満足するプレーができていませんが日々の努力を怠らず、日々精進していきます!今シーズンはリモートマッチが多いかと思いますが、観戦している方に勇気や元気を与えられるプレーをしていきます!

応援よろしくお願いします!

みなさん、こんにちは!今1番旬な男、No.17の瀧澤尚也です。

26歳になり、4年目に突入しました。今しかできないことを全力でやってやろうと思いながら最近過ごしているので、仕事もハンドボールもプライベートもノリノリです!笑
※ノリノリ…勢いがあるという意味だと思ってください。

そんなノリノリな26歳瀧澤に、【生い立ちシリーズ】がやってきました!前作で「瀧澤の成長日記」「私の学生時代」を書き、小学生・中学生時代の紹介をしたので、今回は「とても貴重な幼少期」、そこからぬくぬくと成長した「高校生の私」のことについて、次の3つのテーマに沿ってご紹介したいと思います。

1.ハングリーなお祭り男
2.キャプテン瀧澤
3.一人暮らしのタッキー

私は1994年4月14日に群馬県で生まれました。生まれた時の体重は4136g、身長は53cmでした。これを聞いた時は、思っていた以上に大きすぎて、自分でもびっくりしました。立派な身体で産んでくれたお母さんに感謝ですね!

今はこんなに大きい私ですが、小さくてかわいい時代(リトル瀧澤時代)がありました。そんなリトル瀧澤が1番好きだった行事があります。私の地元「富岡市」は、市主催の大きなお祭りから神社で行われる小さなお祭りまでたくさんのお祭りがあり、夏から秋ごろにかけてとても賑わいます。

よく家族でお祭りに行き、屋台の前で両親に「これ食べたい!」と言って屋台を走り回っていたらしいです。帰るころには、手元に「たこ焼き」「綿あめ」「お好み焼き」のゴミを持っていたそうで、お祭りというより完全に屋台が目当てのハングリーのお祭り男でした。

手に持っているものは……?

リトル瀧澤は、この頃から食いしん坊の頭角を現していました。群馬県の大自然の中でぬくぬく育ち、この小さい頃の姿が薄れるほど大きくなっていきました。

次のテーマ「キャプテン瀧澤」に話を進めたいと思います。前回の「私の学生時代」で記載した中学生時代を経て、群馬のハンドボール強豪校である富岡高校へ進学しました。

私の中で高校生活の3年間が今の私を作ってくれたと思うほど、お世話になった顧問の岡田先生と栃谷先生、そして先輩・仲間に支えてもらいました。1年生の頃は、先輩の走りやフィジカルについていけず、自分が情けなく思い、つらかった思い出があります。そんな思いを持ちながら毎日トレーニングに励んでいると、2年生になった頃にはしっかりと身体もできてきました。そして通常の練習においても、ただついていくのではなく、後輩をしっかり見ながら練習を引っ張っていました。そして3年生では、先生からキャプテンを任されました。

キャプテン・瀧澤(今より跳んでいるかも!?)

先輩たちの意思を継ぎ、張り切ってやっていましたが1人では何もできなく、周りに支えてもらってインターハイ、国体を戦い抜きました。現在では共学になっていますが、私が在籍していた頃は男子校で漢(おとこ)ばかりの環境で、暑苦しいくらいに熱い高校生活を過ごせました。

そして最後のテーマ、「一人暮らしのタッキー」(「借りぐらしのアリエッティ」風)。
大学でもハンドボールを続けたいと思ったリトル瀧澤は、一段と成長したいと思い親元を離れ、明治大学へ歩みを進めました。そして、明治大学に入学して初めての一人暮らしというものを始めました。親がいる環境に慣れていたので、炊事・洗濯・掃除をするのがどれほど大変なのかを思い知りました。特に、初めての料理は難しく、自分が好きなものばかり作っていたせいもあり、「究極に美味しそうなオムライス」が作れるようになりました。

タッキー'sキッチン「でら旨デミオム」
※でら…名古屋弁で「ものすごく」という意味。

また、全国のいろいろな強豪校からきた仲間や、大学でできた友人との出会いのおかげで、いろいろなことを経験できました。一段と成長することができた有意義な大学生活を送ることができました。大学ハンドボールをしながら就活をしていると、大同特殊鋼から声をかけていただき、自分が大好きで続けてきたハンドボールがまたできるチャンスをもらったので、大同特殊鋼に入ることを決めました!
これが、リトル瀧澤から旬な瀧澤に至るまでの生い立ちになります!

最後に、コロナ禍でもハンドボールができる環境に感謝し、大同特殊鋼Phenixとしてチーム一丸となり、日本一に向けて一戦必勝で戦っていきたいと思います。
皆様からの温かいご声援よろしくお願いいたします。

順位表
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