みなさん、こんにちは!No.24杉本です。
今回の週刊フェニックスでは、私の生い立ちを紹介します。

私は1992年の大晦日に、愛知県名古屋市で生まれました。幼い頃の記憶はありませんが、あまり泣くことのないおとなしい性格だったようです。

幼少期の杉本

 
小学生時代は、放課後に「遊戯王カード」やテレビゲームで遊ぶインドア寄りの少年でした。しかし、小学4年生の頃に少年野球チームに入団し、生活が一変しました。左投げだったこともあり、入団後すぐにピッチャーに抜擢され、野球に没頭していきました。当時から小柄な私は、フルスイングをしても外野まで打球を飛ばすことができず、ヒットを打った記憶がほとんどありません。エースで4番、投打で存在感を示す野球少年に一度は憧れましたが、少年野球から9番ピッチャーで、早々に打撃を諦めていたことを覚えています。
そんな私のユニフォームは、泥だらけのチームメイトとは対照的に“まっさら”な状態が保たれており、洗濯の負担を減らす母親想いの野球少年でした。

小学校時代

私のハンドボール人生は汐路中学校でスタートしました。中学校時代を振り返ると、2年生秋の新チームが始動した時期がとても印象に残っています。その時期は、汐路中学校の顧問がJOCジュニアオリンピックカップに向けて結成される愛知県選抜のスタッフを兼務していたこともあり、1歳年上の学年で構成されていた愛知県選抜と合同で練習する機会が頻繁にありました。ハンドボール歴2年の私とは別次元のプレーで魅せるフェニックスファミリーの杉山選手と初対面し、衝撃を受けたことを覚えています。このような刺激的な時間の中でプレーを磨き、少しずつ自分に自信が持てるようになり、ハンドボールに対する姿勢が変化していきました。

その後、無事に義務教育を修了した私は福井県にある北陸高校へ進学し、指導者やチームメイトに恵まれて在籍中に3度の日本一を経験することができました。高校時代に厳しい練習をした記憶はあまりありませんが、週末は県外遠征が多く、全国の強豪校と練習試合を繰り返していました。このように練習の成果をアウトプットできる恵まれた環境で経験を重ね、チームが成熟していったことを覚えています。また、個人としては高校2年生と3年生の夏にU-19の日本代表に選出されたことで、当時から憧れの先輩だった平子選手や藤江選手と同じように、大学でもトップレベルでハンドボールを続けていくことを思い描くようになりました。

高校卒業後は大学でも日本一になることを目標に、日本体育大学に進学しました。大学ではレベルの高い選手に囲まれながら厳しい練習を重ねて、プレーの幅を広げることができました。ハンドボール以外では教育実習で母校の教壇に立ち、初授業で板書に苦戦しながら、豪快に授業時間を余らせたことが懐かしい思い出です。
 
以上が私の生い立ちとなります。
今回、週刊フェニックスの原稿作成をする時間は、これまでの人生を振り返る貴重な時間となりました。今年で28歳になりますが、地元のチームで大好きなハンドボールができる環境に感謝しながら、ケガで離脱した昨シーズンの分もチームに貢献します。

最後は、大学時代にU-22の東アジア選手権で韓国を訪れたときに撮影した、東江選手との懐かしい写真でお別れです。こんな私たちもアラサーを迎えています……。 

大学時代

フェニックス選手達の「生い立ち」シリーズは私で終了となります。最後までお付き合いいただきありがとうございました。今後とも、フェニックスの応援をよろしくお願いします。

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